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耳寄り情報


◆グルメ◆

 沼津は伊豆への玄関口として沼津港を控えています。
戸田、土肥、堂ケ島へ潮の香りを浴び乍ら富士山を仰ぎつつ伊豆の山々をながめて
雄大な景観を満喫なさる船旅も誠に結構かと思います。黒潮の暖流に恵まれ魚市場
には魚種も極めて豊富で港湾には活魚料理、御鮨、魚関係に働く方々の食堂等沢山あります。
 食通も唸る様な朝魚市場にあがったばかりの新鮮な魚を調理し食べさせてくれます。
絶対にオススメです。又、先日戸田で食べた深海魚の刺身は美味しかったです。おみやげには魚のヒラキは如何でしょう。
 沼津は全国生産量(真アジ)の40%を占め日本一です。
(アジ、エボダイ、カサゴ、サンマ、カマス等種類もたくさんです)



◆見処◆

 1.沼津御用邸(明治、大正、昭和の天皇別御殿)

 2.尾瀬崎(ビャクシンの大樹林 国指定の天然記念物)

 3.我入道の渡し舟(4月〜12月の間、土・日・祝日運航)

 4.千本公園(松の古木、若山牧水記念館)

 5.松蔭寺(白隠ゆかりの寺)

 6.興国寺城址(北条早雲旗上げの出世城)



 白隠の禅師 (1685〜1768) は駿河国原宿 (現在の沼津市原) の長沢家の3男として貞享 2年 (1685年) 12月25日の仕舞天神の日丑 (午前 2時頃 1〜3 時の間) の年丑の月丑の刻に生まれ、幼名は岩次郎といった。
4才の頃より才知のきわめてすぐれた子供ぶりを発揮し、 7才の時には、お寺で講義された法華経を暗誦したという。
15才の時、松蔭寺で出家慧鶴と名づけられた。19才より旅に出て諸国を修行し、24才の時飯山の正受庵に行き正受老人に会う。 (本名は道鏡慧端(ドウキョウエタン))と言う。真田伊豆守信之の妾腹である。真田昌幸が正受老人の祖父・幸村は、伯父にあたる。19才の時、江戸の東北庵において至道無難と言う大禅者に面会し、弟子となった。刻苦錬行し、一流の禅者となった。信州飯山に帰りその山内に正受庵を建て閉居した。白隠の師、白隠にとって欠くべからざる人、正受老人に侍すること八カ月余その蘊奥を極む。更に諸寺に佳錫し修行を重ね、34才の若さにして花園 (妙心寺) 第一座となる。
ついに 500年に一人と言われる程の傑出した高僧となり、のち臨済禅中輿 (衰えていた禅宗を再び盛んにする )の租と仰がれる様になった。多才にして書はもちろん禅画をよく好んで釈迦、観音、達磨を描き、現在松蔭寺に多数保存されている。又「駿河には過ぎたるものが 2つあり、富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和 5年 (1768年) 12月11日84才で入寂し、後桜町天皇より神機独妙禅師の謚号(シゴウ)を、また明治天皇からは、正宗国師の謚号を賜った。
白隠の名は全国に轟き、参禅、参学せんとする雲水はついに数百人にのぼった。集って来た僧は優秀であり、白隠の峻厳な教えを甘受し、松蔭寺において命を落とす事も恐れないという程の者もいた。これらの修行僧達は古家を借り、やぶれ社の中で寒さにこごえ、食に飢えて厳しい修行に励んだ。
臨済宗ではない他の禅学のお坊様でも最も尊敬する禅僧の第一に白隠さまを挙げる方が多い。


道歌
 ・死んだ後 仏と成と思ふなよ
   死なぬ内こそ 真の妙法
 ・つつしみを君が心の根とすれば
    言葉の花や 見事咲くらん


白隠の著書
 ・漢文語録と一般在家の者に分かり易く説いた法語類とある
  (一人でも多くの僧、在家の庶民を教化しようと懸命に努力されている)
 白隠座禅和讃、夜船閉話(ヤセンカンナ)、遠羅天釜(オラテガマ)、隻手(セキシュ)の公案(コウアン)、延命十句観音経霊験記、見性成仏丸 方書、おたふく女郎粉引歌等他多数。


日本の禅語録「白隠」
 鎌田茂雄著
 発行 講談社 033 945 1111 を御読みする事をおすすめ致します。


北条早雲 (1432-1519)
 伊勢新九郎長氏 (氏茂) 又は、早雲庵守端と出家者としての名前もある。 (これより長氏と記す)

 出身は伊勢の説もあるが、備中 (岡山県) 荏原の荘 伊勢氏の子が真説の様です。ある時、突然現れて瞬く間に戦国大名に出世したといわれており、油売りから戦国大名となった。
 美濃 (岐阜県) のマムシの道三 (斉藤道三) とともに狡賢い人の代表のようにも言われてきました。武家であった長氏が下剋上の戦乱 (応仁の乱、地獄図の如き世相) を嫌い出家した。僧としてもかなりの修行を積んだその長氏が又還俗した経緯は非常に興味深い。
 やがて妹 (北川殿一桃源院殿 縁者ではあるが実の妹ではないとの説もあり) の嫁ぎ先駿河国 (静岡県) の守護今川義忠の元に来てやがて起こる。今川の跡目相続争いに甥の龍王丸 (後の今川氏親) を立て、それをまとめたのが長氏であり、この事が彼の出世のきっかけとなったのである。

早雲と沼津
 長氏が初めて城持となったのが、興国寺城 (1488年56才)(富士下方十二郷の主、現在の沼津市根古屋) である。興国寺城は「早雲旗揚げの城」又は、「出世城」などとも呼ばれている。
 興国寺城は愛鷹山麓台地下端を利用し、堀をめぐらし、堀の内側には丈夫な土塀を作って天守台や石火矢台を設けた。
 長氏は曽我氏 (狩野氏の一族) と境を接することとなったが、彼にはまだ曽我氏を攻めるだけの力はなかった。しかしわずか 3年後の1491年、伊豆韮山の堀越公方である足利政知 (八代将軍 足利義政の弟) の死後、跡目争いの混乱に乗じて、 (今川氏親の応援を得て) 一気に堀越公方を攻め滅ぼした。
 韮山城に移った長氏は、鎌倉幕府の執権北条時政 (頼朝の妻、政子の父) の子孫の養子となった。しかし「伊勢」の名字から「北条」に変わったのは早雲の子・氏綱の代からである。又「平」姓も名乗っている。鎌倉期の北条と早雲の北条を区別する為「後北条氏」と呼ぶこともある。この後、下田城主・関戸氏を攻め滅ぼし、伊豆半島を全て手中に収めたのである。この時、長氏に抵抗した関戸氏の一族・家来は、もとより女・子供まで見せしめの為処刑し、城のまわりに首を晒したといわれています。しかし、年貢は五公五民を四公六民と改めています。治政に優れた早雲は飴とムチの使い分けに巧みな武将とされている様です。
 1495年小田原の大森氏を攻め滅ぼし、関東に進出した長氏は早雲と名を変え、1519年、数え年88才で韮山城にて没す。
 人生50年の時代、随分長生きであった。長氏の伊豆に向かって旗上げして以来、関東地方は有力な武将達が、互いの領土を奪い合う世の中となり、東国の戦国時代のはじまりを長氏の伊豆攻めから考える人も多い。

早雲のエピソード
●ネズミが杉の大木を倒した夢
 ある時、早雲が三島大社にお参りをしたあと、一匹の小さなネズミが 2本の杉の大木をかじって倒し、そのあと虎に変身した夢を見たといわれています。早雲はネズミ年生まれなので、そのころ相模の国や、武蔵の国に力を持っていた二つの上杉家を、自分が倒し、大きな力を持つ人になる予言だと考えて、この国を自分の領土にする野望をもったといわれています。


●小田原城乗っ取り
 小田原城を攻め取るため、早雲がとった作戦は、箱根山で鹿狩りをしていたら、鹿が小田原城の方へ逃げてしまったので、連れ戻すために追い立てる勢子を入れさせてくれるように頼み、安心させておいたうえで、勢子に変装させた兵士を入れて城を乗っ取ったというものでした。


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